グイノ神父の説教

 

 
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王であるキリストの祝日



 
     年間第23主日   C年  2022年9月4      グイノ・ジェラール神父

          知恵の書9,13-18    フィレモン9-17     ルカ14,25-33


 エルサレムに向かっているイエスは、数日のうちに十字架上で殺されることを知っているので、彼は自分に従いたい人々に厳しい条件を要求します。と言うのも、実は福音宣教は苦しみと死を通して実を結ぶからです。イエスだけがこのような厳しい犠牲を要求することができます。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と。

 言い換えれば、キリストが望む弟子になるためには、完全に愛することができるように、イエスの後に自由に歩むことを阻む全てのものを切り落とさなければなりません。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と。イエスを指導者として選んだ人は、苦しみを与えるすべての状態が「命の溢れる道」になることをよく知っています。イエスの十字架を背負って歩んだキレネのシモンは(参照:ルカ2326)イエスの本当の弟子の姿を私たちに見せました。

 確かにイエスの後を歩むことは、長く続く冒険であるからこそ、終わりまで歩み続けるためには我慢や犠牲が必要です。そのためにイエスは、弟子になりたい人にまず座って、ゆっくりとよく考えるように勧めます。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(参照:ルカ9,62)とイエスは言われました。

  もしかすると自分に従いたい人を断念させてしまうかも知れませんが「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」とイエスは言われました。苦しみを受け、殺されるためにエルサレムに向かっているイエスは死を目指しています。イエスに従う人々にとっても、この旅は死を引き寄せる道です。ですから、すべてを一切捨てることが必要です。それを行うようにイエスは既に心で準備しています。実に、ご自分のすばらしい愛のしるしとして、イエスは全てを捨てました。イエスの服は剝ぎ取られ、自分を殺す人々に赦しを与え、自分の母を愛する弟子ヨハネにゆだね、そして父なる神の手に自分の命を返しました。

  実現し難いイエスの言葉は、全てがいつか終わるので、自分の生き方を新しい眼差しで見るようにと私たちを招いています。この眼差しのお陰で、キリストの弟子たちの本当の家族は、日曜日ごとに集まってくるこの共同体です。ここで私たちの信仰が養われて成長していきます。ここで私たちは皆の喜びと悲しみを支え、分かち合っています。ここで父なる神は子どもたちである私たちに愛と慈しみに満ちている言葉を聞かせます。

 更に、第一朗読が紹介した神の知恵をイエスは特にここで私たちに与えます。知恵はこの地に神の考えを知らせ、そしてすべてに対して明白正しい見方を与えます。私たちが持っている欠点にもかかわらず、この知恵は神の愛を発見するために、日ごとに益々私たちの心を開きます。ですから、ここでこの知恵が溢れるほどに豊かに与えられるようにお互いに祈り合いましょう。そうすれば、私たちは皆神が望まれる本当の家族となり、イエスの愛する兄弟姉妹になるでしょう。 アーメン。

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     年間第24主日  C年  2022911日    グイノ・ジェラール神父


               出エジプト32,7-14  1テモテ1,12-17  ルカ15,1-32

  今日の朗読は、偶像礼拝、迫害、回心、赦し、喜びについて私たちに語っています。自分の信仰を分かち合ってない人や自分が軽蔑している人々を無視することや真の神を否定することは不幸、暴力、批判、憎しみを生み出します。反対に回心、赦し、和解、分かち合いは、喜びと幸福を生み出します。今日イエスはご自分の喜びを分かち合うように私たちを誘います。

 イエスは「失われたものを探して救うために来ました」(参照:ルカ19,10)。また、私たちも「飼い主のいない、弱りはて、打ちひしれている羊」「のところへ行くように」(参照:マタイ9, 36 10, 6)とイエスは招いています。イエスはどうしても天の喜びであり、ご自身の宣教的な喜びに私たちも与からせたいからです。ちょうど10週間前に聖ルカは福音書の中で、イエスに委ねられた福音宣教を実現して帰って来た72人の弟子たちがどれほど喜びで満たされていたかを証ししました(参照:ルカ10, 17)

 回心を呼び起こすことや、偏見く人を歓迎することや赦すこと、和解することは神を真似ることです。またそれは人を癒し救う神ご自身喜びを分かち合うことです。多分私たちはそれを忘れている傾向あると思います。しかし詩編51がそれを思い起こすように招いています。「主よ、御救いの喜びを再び私に味わわせ、自由の霊によって支えてください。私はあなたの道を教えます、あなたに背いている者に、罪人が御もとに立ち帰るように」(参照詩編5114-15)


 放蕩息子のたとえ話は家族的な悲劇を語っています。イエスは、自由に好きなように生きるために自分の家庭を捨てて、すべてを失った人の話をしました。このたとえ話はまた 自分の二人の子供の幸せを強く望んでいるのに、全く理解されていないある父の心配と苦しみ、そして愛で満たされた父の態度を私たちに見せています。実に、この父の限りのない愛は、二人の息子を回心させ、自分の方へ引き寄せ、そして彼ら父と同じ大きな喜びを分かち合うようにさせます。

 今日の三つのたとえ話を通して、イエスは神が私たちに示す信頼を現しています。 失われた羊の話も銀貨の話も放蕩息子の話もすべて結果的には見つけました。なぜなら、失われた羊は誰かが羊を探しに行き、銀貨を無くした女性は丁寧に家を掃き、放蕩息子は急いで走って迎えられましたから。失われた者が神の肩に担がれて、胸に強く抱きしめられて喜びで満さたので、祝いの主人公になりました。

 偏見と間違った正義に閉じこもっているファリサイ派の人々と律法学者たちは、イエスを批判しますが、神の喜びを断っています。私たちも皆の救いを望まないなら、この素晴らしい喜びを味わうことを見逃してしまうでしょう。

 ですから、私たちはせめて「悔い改める一人のために」喜ぶことができるように、神に願いましょう。なぜならこの体験を通して「イエスはわたしを愛し、わたしのために身をささげられた」(ガラテ2,20)という言葉の意味を人が悟るようになるからです。神の慈しみ、赦しと愛のあふれる腕の中で自分が罪びとだと認めることは、神が私たちに与える最も大きな喜びです。アーメン。

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        年間第25主日 C年   2022918    グイノ・ジェラール神父

              アモス8,4-7       1テモテ2,1-8      ルカ16,1-13

 自分の利益を出すためにごまかして不正を行うには、知恵と効果的な働きが必要です。それと同様に神に真似て、正し事や善を行うためにも知恵と効果的な働きを要求します。この知恵と効果的な働きを使って、自分を囲んでいる人々と真実の繋がりを結ぶために、あらゆる方法を探すことが大切です。実に、神が私たちをお造りになった理由は、私たちと親密な関係を結びながら、友として対話したいと望んだからです。旧約聖書がそれを思い起こさせてくれます。「人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られました」(参照:出エジプト33,11)と。イエスもそれを実践しました「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない・・・わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(参照:ヨハネ15,15)と。

 確かに、私たちが所有するものを利用して人々と真実の関係を結ばなければなりません。お金も富も、それらは良いことでも悪いことでもありませんが、誤解を招くものであることをイエスは忠告しています。というのは、それらに安全により頼むことができるという錯覚を与えるからです。そして、知らず知らずの内に人は自分の所有物の奴隷になってしまいます。事実、もし人の人生の目的がお金を持つことであれば、その人はもっともっと持つことを望み、その人のお金の探求は決して終わることはありません。おまけに他の人々と親しい友情の繋がりを結ぶよりも、もっと新しいお金儲けに時間を費やすのです。また、人は新しいものを手に入れるために自分の時間をついやします。イエスは、お金は目的ではなく、地上で慎ましく生きるために必要で避けられない手段だと説明しました。私たちはお金と富を支配するべきです。決して支配されてはいけません。


 「不正にまみれた富について騙されないように気をつけなさい」とイエスは勧めています。本当の豊かさは、神と人とが友情ある関係を結ぶことです。ちょうど悪い管理人が主人を騙したお金で偽の友だちを作ったように。たしかに、イエスの教えは明白で確かであり、次の事を伝えます。お金と物質的な物の奴隷となった人々がそんなにも賢いのなら、ましてや「神の子ども」である私たちはもっと賢くなるはずです。また、自分の永遠の未来を確保するために、自分だけの安全さ手に入れるよりも、自分自身と大勢の人のために永遠に残るものを捜し求める方がよっぽどいいです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(参照:マタイ6.33)とイエスは勧め、約束しました。

 言い換えれば、私たちが皆の利益のために正直に、賢く行うようにイエスは誘い励ましています。それを目指すためには、祈らなければならないと聖パウロは助言します。「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」と。祈る人は思いがけない出来事や数々の問題に対して、一人では何もできないことを謙遜に認めています。祈る人は選ぶべきよい決定や歩むべき正しい道を神に教え示していただけるように信頼をもって願っています。「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(参照:ヨハネ15,5)とイエスは忠告しました。

 ですから、絶対にまちがうことのない神の摂理に頼ることができるように、イエスが私たちに知恵と賢明さを与えるように願いましょう。イエスの言葉を固く信じましょう。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで充分である」(参照:マタイ6, 34)。また「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(参照:マタイ6,89 そうであれば、心配をせずに、自分の人生と全ての日常生活を神の摂理と慈しみに委ねましょう。アーメン。

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          年間第26主日  C年  2022925日  グイノ・ジェラル神父

             アモス6,14-7     1テモテ6,11-16     ルカ 16,19-31

 「災いだ、シオンに安住したサマリアの山で
安逸をむさぼる者ら」と預言者アモスは宣言します。イエスのたとえ話はその宣言を確認しています。安らぎと心配のない人生を味わっているたとえ話の贅沢な金持ちは、死後、変えられないとても悪い状態に陥りました。そういう訳で聖パウロは「信仰、愛、正義と忍耐の内に生きることを」若い弟子のテモテに切に勧めています。
 
 現在では、自分の周りのすべてが急激に変化するので、私たちが心配せずに安逸を味わうことができるでしょうか。新コロナウィルスは私たちの近くに隠れているし、気候はますます不順になり大きな水害や火事が次々に世界を襲っています。どの国々も水や食料の不足、平和を脅かす力が増加していると感じています。そのような時代に私たちがよく考えて何かよい手立てを行うようにイエスは不思議なたとえ話を語ります。先ずイエスはこの世で自分の生活に満足し贅沢な生活をしていても他の人には何も分かち合わない金持ちを見せます。そして、この世では何も受けずに貧しい生活をしていてどこかで必要な食べ物を探すこともできずに、ただ座ったまま待っている貧しい人をみせます。結論はこの金持ちは死んでから厳しい罰を受けました。誰もこの金持ちに一滴の水さえ分かち合うことができません。しかし、死んだ貧しい人は慰め、尊敬を受け、安らぎを味わいます。

 ある日洪水について話したとき、イエスは次のように言いました。「人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。何も気がつかなかった。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらいました」(参照:マタイ24, 38-39)と。無関心で、何も気がつかずに、危険を認識せずに生きることはとんでもない災いを呼び起こすと預言者アモスもイエスも忠告しています。また他の人たちの不幸に対して無関心で、分かち合うことをしないことは、不幸の門を大きく開くことです。神に対しても人々に対しても、気を配ることをしないなら、自分の生き方は乱雑になりバランスを失ってしまい、絶対に実を結ぶことができません。そしてそれは永遠に続く可能性があるとイエスは忠告します。

 もちろん、世界の問題を解決することは簡単ではありません。そして私たちはその力を持っていません。しかし、無関心にならないように何かできるのです。例えば、救いの手を差し伸べ、少しでも分かち合い、慈しみや共感や心配りをする気持ちを示すことができます。隣人に与える思いやりや助けが私たちの人生を潤し、命を豊かにします。

 今日のたとえ話を通してイエスは次の事を教えました。つまり、貧しい人の嘆きの声が聞こえなかった金持ちは、神の声も聞くことができませんでした。ラザロの苦しみの叫びに対して、耳の聞こえない人となった金持ちは、同じように自分を回心させ救うことができる神の言葉にも耳の聞こえない人となりました。

 毎朝、司祭たちや修道者たちは神と対話して賢明であるように招く詩編を唱えます。「今日こそ、主の声聞くなら、心をかたくなにしてはならない」(参照詩編95,7-8)。 聖パウロは、若いテモテが神の言葉を聞くことによって、愛と希望の内に忍耐強く耐え忍ぶように切に願っていました。神の言葉を聞くことだけがそれを実践させるのです。ですから、神のみ言葉に私たちの耳をよく開き、そして分かち合い、共感し、助け合うことに私たちの心を開くようにイエスに願いましょう。アーメン。



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             年間第27主日  C 202210日   グイノ・ジェラール神父

            ハバクク 1,2-32,2-4       2テモテ1,6-813-14      ルカ17,5-10

 「主よ、いつまで、私は助けを求めて叫んでいるのでしょうか」という預言者ハバククの叫びは全世界に響いています。神の沈黙を前にして、数えきれないほどの人の声がこの不満の嘆きを叫び続けています。「主よ、あなたに叫んでいるのに、あなたは聞いてくださらない、あなたは救ってくださらない」と。神の沈黙の前に、キリスト者である私たちはイエスの弟子たちの願いを繰り返すことしかできません。「主よ、私たちの信仰を増してください」と。なぜなら、黙っている神が私たちを愛し、助けると私たちは固く信じていますから。

 確かに神が預言者ハバククに答えたことは私たちにも言われます。「忍耐して、待ってください。私に従う人は信仰によって生きる」と。真の信仰は世界を変化させ、言葉で言うだけで海の中に木を植えこともできるとイエスは弟子たちに教えました。忍耐、忠実さ、信仰、信頼、希望が絶えず私たちの心を潤し、私たちの祈りを養い支えなければなりません。

しかしそれはまた苦しみの源になる可能性があります。それを体験した聖パウロは若いテモテに忠告しました。「福音のために、わたしはこのように苦しみを受けていることを恥じてはなりません」と。思いがけない出来事が急に襲って来る時、神は私たちにこの心構えを持つことを願っています。信仰を強めることを願った弟子たちにイエスは僕たちが行うべき奉仕について話すことによって答えました。実に信仰とは、すべてに逆らって、行うべき奉仕です。この奉仕によってキリスト者は「神が慈しみ深く、世界の人々にご自分の善良さと救いを現すために急いでいる」という事実を心に強く受け取ることができます。

信仰の奉仕によって、人は神が世界の苦しみと苦難に対して無関心でない事を証し、そして神が十字架上で死ぬほどに、私たちの苦しみと不幸を背負っていることを宣言します。カルヴァリオの苦しい十字架の道行きは、全ての人の前に開かれている解放と希望、喜びと光の道となりました。

もちろん、信仰を持っているからと言って、絶対にすべてが簡単にはなりません。荷が重すぎて耐え忍ぶことのできない試練を受ける人は、イエスの祈願と同じ叫びを神に願うことができます。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(参照:ルカ22, 42)と。

 全ての人の僕となって、今まで誰も愛せなかったほど深い愛で愛したイエスを真似ることによって、私たちは信仰の内に成長することができます。しかし聖霊だけがこの愛と奉仕と信頼の道に私たちを案内します。奉仕と愛で満たされた私たちの行いによって、この行いがどんなに目立たなく謙虚なものであってもこの行いによってまわりに居る人々が神から愛されていることを発見できます。

エルデル・カマラ司教は次のように言う習慣がありました。「絶対に忘れないで欲しい。大勢の人にとって、ただ、あなたの生き方の証しだけが“彼らに読める唯一の福音です”」と。ですから、私たちの生き方と信仰の証しによって全人類に対する神の愛と慈しみを示すようにイエスと聖母マリアの助け、そして聖霊の教え導きを願いましょう。 アーメン。


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           年間第28主日 C 年  202210日   グイノ・ジェラール神父

                 列王記下5,14-17   2テモテ2,8-13   ルカ17,11-19

 エルサレムに向って歩いていたイエスは、重い皮膚病にかかっている10人の人と出会いました。彼らが社会に戻るため、病気が治って健康である保証を受けるために、またご自分について証しするために、イエスは彼らをエルサレムの祭司たちに遣わします。実に、この10人は、一緒にエルサレムに向っているイエスと弟子たちのグループよりも約200メートル先にいます。途中で病気が治って元気になったことに気付いた彼らはイエスの所へ戻って、感謝することは簡単にできました。しかし、その10人の内で、イスラエル人にとって異端者と思われる1人のサマリヤ人だけが神に感謝しながらイエスのそばまで戻って来ました。イエスは彼の信仰を褒めました。しかしイスラエル人の信仰を持っていないこのサマリア人にとって、エルサレムの神殿へ行くことは必要ではないので、イエスはこの場所で彼が完全に元気であることと、そして彼が救われたことを宣言します。

 イエスは救いへの道です。エルサレムに向かって歩き続けた9人の人たちは、病気は癒されましたが、イエスの所に戻らなかったので救われませんでした。第一の朗読が教えている通り、元気になったシリヤ人のナアマンはすぐ預言者エリシャの所へ戻ったので、彼は自分の国に帰った時に、救いを与えるイスラエルの民の信仰を心に留めました。聖書の物語はしばしばイスラエル人よりも異邦人が効果的な強い信仰を持っていることを見せます。目立つ模範としてシリヤ人のナアマン、サレプタのやもめ、ルツ、シバの女王、ローマ人の百人隊長、シリア・フェニキヤの女などを思い起しましょう。

 イエスを通して感謝するために神に戻る時に、信仰が芽生え始めます。今日ように、ここに毎週日曜日に集まって、イエスに自分の罪びとの状態を見せながら、愛することや赦すこと、信じること、あるいは清くなることを妨げる物事から私たちが解放されることを神に願っています。ミサ祭儀を行い、神の前で私たちのために執り成す司祭に自分自身を見せることによって、イエスは私たちを癒し、救うのです。ミサ祭儀は癒し、清さ、赦しと聖性の泉であるからこそ、本当に「救いの秘跡」です。ミサ祭儀によって、パンとぶどう酒、そして私たち自身もキリストの御体と御血に変化させられています。ここで、私たちの信仰が成長し、私たちの希望が養われ、ますます私たちはキリストに似た者となります。一緒に神に感謝する時に、救いが与えられています。それは私たちが救い主であるキリストと共に一つの体、一つの心、一つの霊となるためです。

 罪の赦し、誘惑に打ち勝つ力、明日を安全にする希望、自分の生き方を新たにする恵みを受けるために、共同体全体と一致して、神に向う人は必ず主の慈しみと救いの喜びの恵みを得るでしょう。なぜなら、教会を通して、神の賜物が豊かに与えられますから。確かに、私たちはここでイエスを通してともに祝って宣言する信仰と希望によって神に感謝し、救いを得るのです。

 そのことを聖パウロは信仰に導いた若いテモテに教えようとしました。「神が私たちを選んだのは、キリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです」(参照:2テモテ2,10)と。この教会、この共同体の中に集まっている私たちがキリストと一致して、神に感謝しています。この状況の中にあって、既に癒しを与え、復活するイエスの言葉を聞くことができます。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と。ところで、これからこの言葉が自分の内で命の泉となるかどうかは、私たち一人ひとりにかかっています。アーメン。

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        年間第29主日   C年  20221016日  グイノ・ジェラール神父

             出エジプト17,8-13      2テモテ 3,14-4,2   ルカ18,1-8

  イスラエルの民の敵に直面して、モーセはずっと天に向かって両手を差し伸べたので勝利を受けました。執拗抵抗する審判者と強すぎる反対者に直面して、たとえ話のやもめは絶対に諦めませんでしたので、裁判に勝ちました。折が良くても悪くても、諦めずに救いの福音を宣言し続けるように、聖パウロは若い友のテモテを励ましています。

 天に向けて手を伸ばし続けていたモーセのように、神から望んでいる結果を受けるために私たちはしばしば時間がかかり過ぎると感じます。また、たとえ話のやもめのように、私たちは絶対に開けられないドアを無理に叩いていると感じるときもあります。きっと、私たちにもテモテのように人生の試練を耐え忍ぶために特別な忍耐が必要だと思います。

 祈りは人に忍耐することを教えていると今日イエスは説明しました。祈るためには時間が必要です。神に感謝するためにも時間が必要です。いくらイエスが「神が速やかに行う」と言ったにもかかわらず、神は私たちの願いに答えるために慌てずに落ち着いているようです。祈り続けることは、必ず勝利に導くためのある種の戦いです。なぜなら、勝利を受けるために戦うのは神ではなく、私たち自身ですから。神は私たちの代わりには戦いませんが勝利まで導きます。フランスの敵であったイギリス人と戦ったジャンヌ・ダルクは、戦いが始まる前に、指揮していた自分の兵隊たちに「戦うなら、神は勝利を与える」とう習慣がありました。

 第一の朗読はそれを理解させようとします。神は勝利の時を遅らせませんでした。実に、モーセが手を伸ばして祈っていた、ちょうどその時にヨシュアとイスラエルの民は敵に対して強くなっていました。疲れ果ててもモーセが祈っていた時、ヨシュアは精一杯強くなって戦います、そして「神が速やかに」イスラエルの民に勝利を与えます。

 天に向かって差し伸べた手が動かないように二人の人に支えられて、祈っていたモーセの姿は十字架に付けられ腕を伸ばしているイエスの姿を思い起こさせます。この苦しい姿勢でイエスは諦めずに父なる神の正義を願いました。とても時間がかかりました。それは午前九時から午後の三時まででした(参照:マルコ15,25-34)。この時聖ヨハネと共にやもめであったイエスの母も、ずっとこの長い時間を立ったままで祈り、泣きながら十字架のそばに残って、二人はイエスをずっと支えいました。しかし、彼らの三人の苦しい忍耐は死の暗闇から命と復活の光を湧き出させました。命の勝利は明らかに示されました。

 このように祈りはずっと続ける心の状態です。「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」を今日の福音が勧めています。私たちの願いが叶ったことを発見するために神に絶えず祈り、諦めずに祈り続けることは大切です。諦めない祈り、忍耐強い祈りを続けると、聖霊が私たちと共に祈り、私たちのために執り成します。聖霊の祈りは「神が速やかに行う」ことを強制します。ですから、待たずに、「私たちのために偉大なを行う神に」(参照:ルカ 1,49)感謝しましょう。アーメン。

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            年間第30主日  C 年  20221023日   グイノ・ジェラール神父

               シラ書 35,12-1416-18     2テモテ4,6-816-18     ルカ18,9-14

 先週の日曜日にイエスは祈る時に忍耐するように教えていました。今日は、短いたとえ話を通してイエスは祈る時に取るべき態度を教えています。神が人の心の中にあるものを見抜くと知っているイエスは、私たちに正しい祈り方を教えようとしました。

 たとえ話のファリサイ人は非の打ち所が無い人です。しかし、自信過剰で、律法を厳守しましたがそれは自慢するためでした。彼は神の助けや教え導きなしには、完全に律法を守ることが出来ないことを認めません。ファリサイ人は手柄を立てて、それを自分の手柄とするだけでなく、自分の後ろで祈っている徴税人を軽蔑し、彼に有罪の判決を下しています。「神様、わたしはほかの人たちのように、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」と。一方、徴税人は神に祈るために自分の相応しくない状を認めます。彼は「神様、わたしはほかの正しい人たちのように、また、このファリサイ人のような者でもないことをお許しください」とは言いませんでした。ただ回心するために神の助けが必要だと認めました。「神様、罪びとの私を憐れんでください」と。

 神の前で、自分を称え、高ぶるために神殿に来る人を神はあざ笑っています。同時に、ご自分の前で、自分を軽蔑し、すべての悪を自分に着せ自分自身を責める人を神は望みません。ただ、人が自分の心を開くように、自分のありのままを単純に見せるように神は願っています。私たちのことをよく見、聞き、知っている神は、私たちについて何を思っているかを必ず教えるでしょう。非の打ち所の無い人であろうと、罪深い人であろうと、私たちは皆、神の慈しみと赦しを受けることが必要です。

 第二朗読を通して聖パウロはたとえ話のファリサイ人になっているようです。聖パウロは自分を自慢し、自分自身を称えます。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです」と。しかし、聖パウロはすぐ自分の自慢を神の業の結果だと認めます。「しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました」と告白しています。また「「誇る者は主を誇れ」(参照:2コリント 1017)と聖パウロは勧めています。

  祈りたい時に、何か大切なことを願う前に、まず、第一に神に感謝することが大切です。すべては神の賜物ですから。神に感謝することが謙遜へ導き、信仰を強めます。また神に感謝することが私たちを正しくし、非の打ち所の無い者にします。なぜなら、感謝する人の上に神は溢れるほどご自分の慈しみと哀れみを注がれるからです。


 今日のミサを通して私たちは皆で一緒に神に感謝しています。典礼は私たちの努力を要求するので私たちは一緒に祈ります。しかし、神は私たち一人ひとりの心に親密に語ります。今日のたとえ話は、他の人の祈り方や態度は私たちとは全く関係がないことを教えました。私たちがここにいるのは他の人を批判し、差別するためではなく、むしろ一緒に神に感謝するため「神の大いなる栄光のゆえに感謝を捧げる」(参照:栄光の賛歌)ためです。

 ですから、一人で、また皆と一緒に祈る時には、ファリサイ人のようにではなく、徴税人のようにでもなく、むしろ、唯一の御父の子どもの態度を取りましょう。そうイエス自身が私たちを誘っています。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(参照:マルコ10,15)と。アーメン。

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        年間第31主日  C年  20221023日   グイノ・ジェラール神父

           知恵の書11,23-12,2     2テサロニケ1,11-2,2    ルカ19,1-10

 イエスはたった今エリコの盲人バルティマイの目を開いたばかりです(参照:マル10,46-52、ルカ18,35-43)。目が見えるようになった彼はエルサレムに向うイエスの後について来ました。イエスの評判を聞いたザアカイはイエスを見ようと決めました。ザアカイは徴税人の頭でしたが彼は背が低かったので、木に昇ることによって群集に遮られずに上か分は民衆から見られずにイエスの様子をよく見ることができると思いました。

あいにく、木にしがみついているザアカイの不安定な姿勢がイエスの目を引きました。イエスは目を上げました。普通イエスは父なる神に祈る時にだけこの目の動かし方をします。イエスはザアカイのもてなしを受けるために、彼の下に謙遜に自分を置いているからです。またザアカイの名を親しく呼ぶことによって、イエスはザアカイに自分の心の慈しみと愛を現しています。この尊敬と名指しを受けたザアカイは大喜びですべてが満たされています。更に自分が望んだこと以上にもっと近くにイエスを見ることができます。ザアカイの上に注がれたイエスの眼差しが、ザアカイの生き方をあっという間にひっくり返します。確かに、イエスが憐みの目を誰かに注がれる度に、何かがすぐ変化します。

 ザアカイはイエスを歓迎します。イエスについてきた盲人であったバルティマイも弟子たちもザアカイの家に入りました。よく知っているエリコの門で物乞いをしていたバルティマイを見て、ザアカイの目も照らされて開きました。一瞬の内にザアカイは次の事実を悟ります。イエスが与える豊かさと自分が持っている富を比べるとそれはたいした値打ちのないものだと解ります。イエスの豊かさを受けたザアカイは、代わりに貧しい人に自分の集めたお金を寄付すること、分かち合うことができました。


 ローマ人のために働いていた徴税人のザカアイと目が不自由であったバルティマイの二人は、社会生活から追い出され、人々から軽蔑されていました。しかし二人はイエスの本当のアイデンティティに気が付きそれを現しています。バルティマイはそれを宣言し叫びました。「ダビデの子イエスよ」つまり「あなたは約束されたメシアです」と。ザアカイの回心は「イエスは金持ちであっても、針の穴を通らせる救い主であること」(参照:マタイ9,24)を宣言します。「イエスが失われ、軽蔑され、貧しく、病気の、罪深い人を探しに来たことを、ザアカイとバルティマイは喜ばしく証しています。

  第一朗読が教えているようにイエスは「全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、主よ、あなたは罪に陥る者を少しずつ懲らしめ、罪のきっかけを思い出させて人を諭される。悪を捨ててあなたを信じるようになるために」と。そして、今日の詩編は加えます。「主よ、あなたは恵みとあわれみに満ち、怒るに遅くいつくしみ深いその恵みはすべてのものにおよび、いつくしみは造られたものの上にある」と。

 イエスと関係を持つことによってザアカイは、自分の家や自分の心に眠っていたもっと良いものを、自分の内に目覚めさせました。イエスの現存はザアカイの生き方を変え、そして彼が人々を歓迎するようにさせました。今日、私たちはイエスのそばに集まっています。それはイエスの声を聴くためです。きっとイエスを見たいと望んでいるからでしょう。信仰の目だけがそれを可能にします。


 私たちを訪れるイエスは私たち一人ひとりの心の中に隠れているので、まず自分の周りにいる兄弟姉妹を通してイエスを発見し、見てみましょう。バルティマイの目を開かれたイエスは、きっと私たちの目も開くことが出来ます。また、ザアカイに対してしたように私たちの心も変化させ、よくすることも出来ます。イエスと共に増々親密に生きる恵みと強い望みが私たちに与えられるように、聖霊の助けを切に願いましょう。アーメン。

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         年間第32主日  C年  2022116日  グイノ・ジェラール神父

          2マカバイ7,1-29-14     2テサロニケ2,16-3,5    ルカ20,27-38

 今月は死者の月ですので私たちは死者のために祈っています。死というものは私たち全員にかかわる現実です。自分の人生の歴史以外に、人は完全な貧しさでこの世を去ります。この人の生き方は神の方へ人を導いたでしょうか、あるいは遠ざけてしまったかは神の裁判がそれをはっきりさせます。

  正直に言えば、私たちは死後の命についてあまり知りません。地上で結ばれた人間関係が死後の世界にも続くのか、それとも永遠に消えるかを知りたいサドカイ派の人たちの質問は、私たちの質問でもあります。実際ある人と生涯にわたってすべてを分かち合った事は彼の死で終わってしまうのでしょうか。これについてイエスの答えは短くはっきりしています。イエスは命であり、復活であるからこそ、説明したことをよく解っています。地上で結ばれた絆は死後に変容され、そして私たちがいま体験していることよりももっと強くなるとイエスは教えています。なぜなら、この絆は「命の泉である神ご自身」と私たちを繋ぐからです。

 ちょうど川の水が青い空と動く雲を水面に映しているように、私たちもこの世では多かれ少なかれ父なる神のみ顔を映しています。しかし、天に於いて変容され聖とされた私たちは、神と親密に結ばれている天使たちのようになるでしょう。ですが、いくら地を這う毛虫と花から花へ飛ぶ蝶のイメージが理解するために助けになるとしても、天の新しい生き方について想像することは避けましょう。私たちは天使のようになるとイエスは言いました。つまり、それは神のように、神の内に完成されるようになるという意味です。

 死者は神の親密さの中に生き続けるとイエスは説明しました。私たちが想像できることを遙かに超えてとても幸せな知らせです。「神の子」として永遠に生きることは 私たちに与えられる最大の幸福です。聖パウロはそれをよく理解しました。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(参照:エフェソ1,4-5)と。

 聖ヨハネも、第一の手紙の中で同じことを教えています。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」(参照;1ヨハネ3,1-2)と。

  兄弟姉妹の皆様、聖パウロと聖ヨハネの言葉がもたらす大きな希望が私たちの日常生活を変容しますように。揺るぎない信頼をもって、今日の詩編の言葉を心に留めましょう。「主よ、瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の陰に隠してください・・・わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み、目覚めるときには御姿を拝して、満ち足りることができるでしょう」(参照:詩編17,815)と。アーメン。

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             年間第33主日   C年  20221113  グイノ・ジェラール神父

            マラキ書3,19-20    2 テサロニケ 3,7-12     ルカ21,5-19

  毎年この時期になると世の終わりについての朗読を私たちは聞きます。この話はとても分かりにくいです。説教を通して説明をしようとする司祭にとっては、まるで罪のつぐないのようです。なぜならこの話はエルサレムの破壊と世の終わりの話と栄光の内に戻ってくるキリストの到来をゴチャゴチャに混ぜているからです。

 ですから、神が教えたいことを皆さんがよく分かるように、出来るだけ簡単な説明をします。エルサレムの大祭司と長老たちはイエスを神殿から追い出してから彼を殺しました。イエスの名が「神はインマヌエル、一緒におられる」と言うことを意味していますから、イエスを神殿から追い出すことによって、彼らは神も神殿から追い出しました。主イエスが死んだ時に、この事実が上から下まで真っ二つに裂けた神殿の垂れ幕によってはっきりと示されています(参照:マタイ27,51)。


 数か月後、エルサレムの大祭司と長老たちはイエスの復活を宣言する使徒たちを神殿から追い出し、キリスト者の迫害を始めました。大祭司と長老たちが神ご自身と神の救いを否定したので 数年後にエルサレムの町と神殿が完全に破壊され、イスラエルの民はローマ人の奴隷になり、イスラエル王国も地図から一掃されます。それはちょうど預言者たちの時代に、イスラエルの民が神を捨て偶像礼拝をしたときに受けた罰と同じ罰です。

 同じように、もし私たちも自分の人生で神の現存を追い出すなら、破壊と不幸が私たちを待っています。神の神殿である私たちの魂の破壊は、もっと酷くなるでしょう。なぜなら、物質的な神殿よりも、霊的な神殿である魂の破壊は永遠に続くからです。ですから、今もこれからもずっと、永遠に神の現存の内に生きる恵みが与えられるように切に願いましょう。そして神に揺るぎない信頼を示しながら、人生の思いがけない出来事や試練に対して、信仰の内に耐え忍ぶことを学びましょう。

  「惑わされないように気をつけなさい」とイエスは忠告しています。ですから冷静さと平穏を持つ人となりましょう。最近の傾向として、大勢の人々が新しいうわさに走り、声高に言われたことに引き寄せられて信じてしまい自由を失っています。勇気と冷静さをもって日常生活の問題と出会うようにイエスは勧めています。「おびえてはならない」とイエスは言っています。全人類にも、自分の人生にも試練が次々と襲ってきます。あらゆる時代に戦争、疫病、災いなどが現れます。特にキリスト者たちは、あらゆる時代に、迫害、差別、あざけり、否定と出会っています。ですから目覚めていて、勇気と忍耐をもって、神の近くに留まりましょう。確かに私たちは、おびえて絶望し、あるいは無関心になって神から離れる危険性がるからです。

 「世の終わりまで、毎日一緒にいること」をイエスは約束しました。襲って来る試練を耐え忍ぶことができるように、イエスは私たちの直ぐ傍に留まっています。このお陰でどんな出来事でも、たとえ悲劇的な出来事でさえも命、愛、新しさの出来事に変えることができると私たちは固く信じています。確かに罪と死の状態に私たちが深く置かれていても、神私たちに命と赦しを豊かに湧き出させることを信じています。

 ですから、信頼と感謝をもって、主の手を取って、ミサ祭儀の神秘に入りましょう。今から、私たちはみな、恐れから愛へ、自分に閉じこもった状態から、歓迎と分かち合いの状態へ、絶望から忍耐と勇気へ移動しましょう。アーメン。

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        王であるキリスト  C年  20221120日  グイノ・ジェラール神父

               2サムエル5,1-3   コロサイ1,12-20   ルカ23,35-43

 キリストは王です。キリストは献身的な善い羊飼いのようであり、また羊のようにおとなしい王です。しかしこの王は目に見えるもの、目に見えないものすべての宇宙万物の王です。王であるキリストの内に神の愛が完成されています。そして神が私たちに与える救いも完全に実現されています。確かに、宇宙万物を作る前に、神は私たちの救い主でありあがない主であるイエスが人間になること、そして彼の内に宇宙万物が完成されることを決めました(参照:エフェソ1,4)。「神は、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(参照:エフェソ1, 9-10)。
 
 典礼年の最後の日曜日にあたって、私たちが王であるキリストを、自分の人生の目的、また全世界や宇宙万物の歴史の目的として見るように教会は強く誘っています。確かにこの世界が始まった時から、何世紀にわたって進化し続けていますが、その進化は終わりに向かっています。私たちは、私たちのために、私たちと共にイエス神の愛の計画を実現していることを信じています。私たちが神の前で、聖なる、汚れのない、栄光に輝くものとして立つことができるように(参照:エフェソ5,27)イエスは自分の王国の方へ私たちを引き寄せます。

  人生に意味を与えるには、この人生の目的を設定しなければなりません。キリスト者である私たちの人生の目的は、罪と死に打ち勝ったキリストです。キリストに辿り着くために私たちは祈り、聖体拝領をし、神のことばで自分たちを養います。また神の赦しと神の聖性を身にまとうために、私たちは定期的に司祭に犯した罪を告白します。私たちはキリストの体の部分です。ですから、キリストにしっかり結び付き、よく似るように努力します。

 更に、イエスと出会うために、わたしたちは毎週日曜日にここに集まります。あらゆる時代のすべての人が神の国に歓迎されるように、私たちは世の救いのために祈り、執り成します。昔神は人間になり私たちの所に来られたので、今度は私たちが神の子になって神の所へ行く番です。勿論、それは簡単ではありません。しかし、イエスが私たちに伴い、聖霊も私たちを導きます。更に、父なる神の方へ引き寄せることや、神の王国に受け入れるイエスの約束を私たちは固く信じています。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(参照:ヨハネ12,32)とイエスは仰っています。

 喜びと希望に溢れ、揺るぎない信頼をもって私たちは神の王国を目指して歩んでいます。と言うのも、キリストは私たちの人生の目的ですから。宇宙万物の王であるイエスは自分の羊をとても大切にし、よく世話する良い羊飼いです。また、宇宙万物の王であるイエスは、羊のために自分の命を与える屠れた神の小羊です。イエスは宇宙万物の王として永遠の命と幸せの泉です。そういう訳で「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(参照;フィリピ2,10-11)。アーメン。



                           
                        

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